「座右の書:特になし」ではもったいない

新年度になったばかりの、とある日。昼休みのオフィスにて、私はデスクに配布された社内報をぼんやりと眺めていた。

新任役員の自己紹介のコーナーがあった。各人が「決意表明」や「印象に残った仕事」などに加え、「座右の書」を綴っている。本に目の無い私だから、こういう"お偉い"人たちが、どんな本を取り上げているのか、気になった。だが、某"経営の神様"の格言集や、某実業家の著書といった、特に意外性の無い「まぁ、そんなものか」という本ばかりだった。

そんな中、唯一目に留まったのは、関係会社の社長による「座右の書:特になし」という一文だ。プロフィール写真を拝見すると、ガテン系の親分のような風貌で、明らかに読書などしそうにない。なるほど、と妙に納得がいった。ありふれた自己啓発本を座右の書とされるよりかは、むしろ潔いかもしれない。

こういう人は、本を全く読まない代わりに、自分自身の経験や身の回りの他者といった、手の届く範囲の果実を掴み、血肉としてきたのだろう。「百聞は一見に如かず」というように、実体験から学ぶことはもちろん重要かつ効率的だ。本ばかり読んでいる頭でっかちよりかは、本など全く読まなくても、面白い体験をしていたり、面白い人間と話をしていたりする人間のほうが、はるかに成長が早いことは間違いない。

だからといって「結局、読書は実体験には適わない」と結論付けるのは、読書の効用を信じる人間としては、納得がいかない。「座右の書:特になし」というのは、あまりにもったいないと思ってしまうのだ。人生のうちで、実際に遭遇できる出来事や、直接出会える人間は限られている。"面白い"経験も、"面白い"人間も、年に数回出会えれば良い方だろう。

ここで「本」というツールの出番だ。本を読めば、一生に一度あるかないか、というくらいの貴重な経験を追体験できる。あるいは、本を読めば、古今東西の"面白い"奴と出会える。その作者が、外国人だろうが、偉人だろうが、関係ない。死んでいようが、生きていようが、関係ない。

ちょっと話は変わるが、今は新生活のシーズンだ。研修も終わり、職場に配属されたばかり、という新入社員の方もいるだろう。会社生活は、はっきりいって「上司」によって大きく左右される。中には、上司との相性が合わず、働き始めて早々、モチベーションが下がっている人もいるに違いない。

そんな人にオススメしたいのは、「仮想上司」をつくることだ。実際の上司とは別に、理想的な上司を、脳内でエミュレートしてしまうのだ。そして、この「仮想上司」の構築に不可欠なのが、本を読むことである。先に述べたように、本を読めば、古今東西の偉人の考えに触れることができる。レオナルド・ダ・ヴィンチアインシュタインを自分の「仮想上司」にしてしまうことだって可能なのだ。映画「グッド・ウィル・ハンティング」で、主人公の天才青年ウィルは、シェイクスピアニーチェを"親友"と言ってのける。読書とは、ニーチェさえも友達にしてしまえるツールなのだ。

私は、元外交官で作家の佐藤優先生や、元大学教員で小説家の森博嗣先生を尊敬し、ロールモデルとしている。これらの作家が、私にとっての「仮想上司」だ。両人の著作は、これまでに30冊以上は読んでいる。だから「こういう場面に対しては、森先生だったら、この様に判断するだろう」という風に、ある程度想像できる。

上司が心から尊敬できる人物だったら、それは幸運なことだ。しかし、そんな大人物が身近にいないからといって、悲観することは無い。自分が本当に尊敬できる人物を、勝手に「仮想上司」として、頭の中に再現すればいいのだ。これは本を読む人間だからこそ、可能となる芸当だ。「座右の書:特になし」では、もったいないでしょう?

「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)